リストマーク 検見川送信所 (2014年04月)

検見川送信所外観

 逓信建築の代表的な存在、検見川送信所本館である。設計は東京中央郵便局を手掛けた吉田鉄郎で、表現主義建築の傑作として知られている。竣工は1926年(大正15年)。日本で初めて、短波放送による標準電波を送信した所だ。1930年には浜口首相の演説を米英に向け初めて国際放送として送信した場所でもある。

 検見川送信所本館は、1979年(昭和54年)にその役目を終えた後、ほぼ放置に近い状態に置かれている。現在は千葉市が中学校用地として所有。一時は解体する方針であったが、保存を求める運動が活発化したため、現在は歴史的建造物として残すことを検討中である。しかし、まだ保存が決まったわけでは無い。

 検見川送信所へは、総武線新検見川駅から徒歩でアプローチする。駅から南の方向へ向かい7分ほど歩くと、左手奥にコンクリート製の建造物が、まるで古墳のように建っている。現在は本館と隣接する給水塔のみ残されているが、周囲にはかつてアンテナを張り巡らせていたと思われる広大な敷地が広がっている。

 本館は2階建ての強固なコンクリート製で、角が丸く処理されている特徴的なもの。正面には3階部分に塔屋が設けられている。入り口は1階と2階の中間レベルにある。階段部分の下部にはアーチ状の造作があり、ここが1階部分の入り口となっている。

 建物全体の形は「T」字のようになっている。本館の隣りには、給水塔と思われる施設も残されている。本館南側は広大な敷地で、見晴らしが良い。

 関東大震災にも耐えた本館は、見るからに強固な造りだ。しかし、壁面は剥がれ落ちて鉄筋が剥き出しになっている部分もあり、さらに、心無い者の手によりスプレーで落書きがされ、保存状態は余り良いとは言えない。一部を除いて、窓部分は外側から鉄板で封鎖されている。本館正面前には、何に使われていたのか判らない鉄骨が立っていた。

 検見川送信所は、開局当時は海岸線に面していたが、その後の埋立・開発により、現在では周囲は宅地に囲まれている。解体されたとした場合、おそらく跡地は中学校もしくは宅地として再開発されてしまうだろう。逓信建築の名作として、是非とも保存してもらいたい建築物である。

Google Maps上での位置は、下記の通り。
検見川送信所


Googleマップ上での検見川送信所の位置。総武線新検見川駅から徒歩で7分ほどの距離にある。

1975年に撮影された、国土地理院の航空写真。現在残っている建物の裏側に、細長い大きな建築物が見える。無数に張り巡らされたアンテナと覚しきものも確認される。

1990年に撮影された、国土地理院の航空写真。前回の撮影と比較すると、アンテナが撤去され、敷地内部に何やら造作物が増えている。

本館入り口部分。上部には半円形のバルコニー状のものが設けられている。

本館2階部分の窓。この窓は外部から鉄板で被われていなかった。

本館入り口部分の階段。建物の角や階段の手摺部分は、丸みを帯びたデザインとなっている。スプレーによる落書きが酷い。

階段部分のアップ。滑り止めの金具が一部分だけ残っていた。

本館入り口の上部にあるバルコニー状の庇を見上げたところ。かつて照明器具が取り付けてあった跡が残っている。

本館と隣接する給水塔。

給水塔と思われる建造物のアップ。

本館前の盛り土の上から撮影。

塔屋部分に設けられた小窓。外壁の剥離が激しい。

バルコニー状の庇の部分。ここも外壁が剥離している。

本館は、角を丸く処理しているため、四角四面のコンクリート建築であるにも関わらず、見た目は柔らかく感じる。窓の部分は、不法侵入を防止するためか、鉄板で現住に閉鎖されていた。

本館正面南側に立っていた、謎の鉄筋。

本館裏側部分。良く見ると、羽田空港へ向かう旅客機が上空に写っている。ここでは、頻繁に飛行する旅客機の姿を目にした。

かつて別の建物と連絡していたと思われる出入り口跡。

裏側から見た本館と給水塔。



検見川送信所本館 【NIKON COOLPIX P330】 (動画)



検見川送信所本館前の広大な敷地 【NIKON COOLPIX P330】 (動画)



検見川送信所本館裏側 【NIKON COOLPIX P330】 (動画)




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